キクイモの小さな思い出と「適切な厳密さ」
今日はたまたま初めてキクイモを買ったので、ポタージュにしようとゆっくり火にかけながらスタバにいる。(職場がスタバの真下の階にあるからできる芸当)
キクイモを自分で買って食べるのは初めてだが、キクイモと言えば以前に思い出がある。
ずっと前にフレンチのレストランでホールのアルバイトをしていた時のこと。
メニューでキクイモを扱った時があって、僕はキクイモをよく知らなかったので、キッチンに行って若いの女性料理人に「キクイモって何ですか?」と聞いた。
その女性料理人が少しのあいだ、僕の目をじっと見た後、
「ジャガイモって何か?と聞かれてもジャガイモですとしか答えられないように、キクイモが何かを聞かれてもキクイモとしか答えられない」
と言った。
キクイモと聞くとこのエピソードを思い出さずにはいられない。
女性料理人は、ちょっと呆れも入ってたかもね。
『何でこの人はこれくらいの事も知らないの?』とか、
『自分で調べればいいじゃない?』もあったかも。
でもポイントはとにかく、「キクイモはキクイモですよ」ってことやな。
つまり僕の質問が雑だった。理解も意図も曖昧で「何を知っていて、それ以上何を知りたいのか」というフレームがなかったから、質問の雑さにそれが表れる。
女性料理人の答えから、曖昧な質問にはそれに相応しい曖昧さで答えるのが適切、という教えが学べる😃
「目的には、それに相応しい適切な厳密さがある」
これは僕が今よく大切にしている姿勢だ。
個人的には、「適切な厳密さ」には「美」があると考えている。
今料理中のキクイモのポタージュも、
適切な厳密さの調理で美味しくなりますように。
ではまた。
「自分中心」問題 (「マスク不要論者は自分中心の発想」論争を目にして😷)
この話もうウンザリってみんな思ってるだろうけど、ツイッターのトレンドで今も時々「マスク〇〇」とかって上がってくるよね。
マスクするしないでまだ揉めてるのか〜、って。
で、昨日のぞいてみたら、こういう喧嘩してた。
投稿した人は、「マスクするしないは自由だが、自分は感染したくないから、マスクしない人は近づかないでほしい」。
そして、「マスク不要論者は自分中心の発想」って不満があるみたい。まあこれがその人の本音というか、怒りの理由なんやろうね。
この議論というか不満って、変形版も含めると前から時々見かける。
要するにマスクとかワクチンとか、何についてであろうと、その事に直接どういう意見を持っていようと、とにかく、自分がリスクやデメリットを感じる相手に対して「自分中心の考えだ」と言って怒ってる。
投稿主にしたって、「マスクするしないは自由」と言ってるし、別に自分の「自由」を侵害されたって話ではないわけみたいだから、いわゆる「お前もそうしろ!」と押し付けてくる「過激派」について怒ってるわけじゃない。普通に「本人の選択でマスクをしていない人」に対し、それでも「自分中心」だと怒っていることになる。
元ネタを整理するとこんな感じだが、コメント欄では案の定、相変わらず、「共感する人たち」と「反感を持つ人たち」で別れて喧嘩していると。
で、今日はマスクするしないとか、感染のリスクの話ではなくて、もっと「そもそも」の話。
「自分中心」を中心とした話😁をする。
そもそも、自分を中心に物事を考えるのは何も間違った姿勢ではない。
なんて、「(自分も含めて)人は何を中心に物事を考えているか」といったことについて落ち着いて考えたら分かりそうなものなんだが。。
これは「自分を中心に考えるべき」とか「〜べきでない」という話ではなく、それぞれの哲学があっていい。
だからそれぞれが選ぶことだが、僕の意見で言うと、むしろそれが不自然が少なく、自然で健康的な姿勢だと思う。
というのは大抵の人は自分の価値観を中心に考え、その上で人にもポジティブな影響を与えるものだ。例えるまでもない話だが、料理人は自分が料理が好きだから料理をするが、その料理が(取引を経て)誰か他の人達の恩恵になる。
同時に、世の中には「(直接)誰かのために何かをする」ということに価値を感じる人もいる。これもその人の価値観がそうなのだとしたら、中心には自分(本人)がいる。このような、自分の価値観を体現するような利他行為は、自分で選んでする(という意味では利己的な)行為であって、道徳的に課される「〜べき、〜しなければならない」とは全く違う話だ。
というわけで、自分中心の発想は何もおかしくない。むしろ倫理的に合理的だし、感情面でも健康的。という話でした。
次に、だとしても「視野が狭い」不満は残るかも知れない。
つまり、自分中心の発想は良しとしても、「もうちょっと周りのことを気遣えよ」「思いやりとかないのかよ」などの話。
この気持ちはよく分かる。
これは次の投稿で書こうと思う。
ではまた。
簡易版・人生の元気を出すコツ😃
創造と問題解決は違う。
ひとつ人間関係に例えれば、好きな人と楽しいことを計画する時は、楽しいし、視界が広がるし、実りがあるでしょう。
それが創造。
嫌いな人についてイヤだなー何とかしたいなーって考えてると、疲れるし、視野が狭くなるし、実りが乏しいでしょう。
それが問題解決。
ものを考えるなら、特に自分の人生について考えるなら、
どうせならが前者がいいよね。
問題や、嫌なこと、変えたいこと、
「何とかしてなくしたいこと」を中心に
ものを考えても元気なんて湧きようがないよね。
本心、好きなこと、を中心に考えると
エネルギーが湧きそうじゃないかな。
試しに今両方並べて考えてみればすぐに分かる。
それだけの違いが大違い。
人はパンのみに生きるにあらず
プラトニック。
プラトンの「饗宴」の中のソクラテス対話での「肉体的・物質的な美への欲望から、精神的真実(への欲求)が開ける」みたいな教えと、新プラトン主義由来の霊的ヒエラルキーの考え方を組み合わせたと。
「物質的な美を入り口にしてより高い階層の神の愛とか真実とかに昇っていく」という世界観ってことかな。で、物質的な美と精神的階層をつなげるこの世界観はルネッサンスの芸術を刺激することになると見た。(それはこれから)
この前、「良い絵からは良い波動が出てる」って言ってる人がいて、「は?どう?」と思った。
こういう世界観ってあるよね。
「物には良い波動や悪い波動が出てて、良い波動に触れると満たされて、悪い波動に触れると嫌な気分になる、だから身の回りは良い波動のもので満たしましょう」的な。
それって「好き嫌い」はどうなるの?
下手すると(僕にとっては)パイナップルからは悪い波動が出てるってことになってしまうねんけどな。
奈良は大人の味
あの男性は、一体奈良の何を知って「美味しいものはない」と断言しているのか?
しかし現実を観察をせずに評価・結論を出すことをprejudice、
偏見と言う。
彼の奈良観は現実を無視した独善的な偏見のそれだ。
奈良から来ているスタッフや友人がいるし、
何より僕は偏見よりも現実を大切にしたい。
まず柿の葉寿司は食べたのか?
おやつに団子庄もなかなか良いし、
埴輪饅頭も可愛いやないか。
彼ら、その後にも色々な話をしている。饒舌に、世の中のことを知った風な口を利いてはいるが、いずれの話も果たしてどこまで信用していいだろうのか。ちょっと不信になる・笑
男性がその後で、トイレを探しに席を立ったかと思いきや、一瞬で戻ってきて、何も言わない。
「ここにトイレはない」
「確かに」
とでも言うつもりか?