キクイモの小さな思い出と「適切な厳密さ」
今日はたまたま初めてキクイモを買ったので、ポタージュにしようとゆっくり火にかけながらスタバにいる。(職場がスタバの真下の階にあるからできる芸当)
キクイモを自分で買って食べるのは初めてだが、キクイモと言えば以前に思い出がある。
ずっと前にフレンチのレストランでホールのアルバイトをしていた時のこと。
メニューでキクイモを扱った時があって、僕はキクイモをよく知らなかったので、キッチンに行って若いの女性料理人に「キクイモって何ですか?」と聞いた。
その女性料理人が少しのあいだ、僕の目をじっと見た後、
「ジャガイモって何か?と聞かれてもジャガイモですとしか答えられないように、キクイモが何かを聞かれてもキクイモとしか答えられない」
と言った。
キクイモと聞くとこのエピソードを思い出さずにはいられない。
女性料理人は、ちょっと呆れも入ってたかもね。
『何でこの人はこれくらいの事も知らないの?』とか、
『自分で調べればいいじゃない?』もあったかも。
でもポイントはとにかく、「キクイモはキクイモですよ」ってことやな。
つまり僕の質問が雑だった。理解も意図も曖昧で「何を知っていて、それ以上何を知りたいのか」というフレームがなかったから、質問の雑さにそれが表れる。
女性料理人の答えから、曖昧な質問にはそれに相応しい曖昧さで答えるのが適切、という教えが学べる😃
「目的には、それに相応しい適切な厳密さがある」
これは僕が今よく大切にしている姿勢だ。
個人的には、「適切な厳密さ」には「美」があると考えている。
今料理中のキクイモのポタージュも、
適切な厳密さの調理で美味しくなりますように。
ではまた。