報酬という罰

今読んでいる本のうちの一冊が、「報酬主義を超えて」って本。これがまだ読み始めで、アカデミックな本は読み慣れてないので大変なんですけど、ただ内容がすごく面白くて、ま〜色々考えさせられる。

報酬、ご褒美とかで人を動かすことについての本です。

「飴と鞭」って言葉の「飴」の方ね。
英語では carrot and stick (ニンジンと棒)・・ニンジンが飴(ご褒美)で、棒で叩くのが鞭(罰)の方ね。

飴を使って人を動かす・・これ、人類が大昔から使って来ている、ある意味、伝統的な手法。

そして、だからとても身近なことで、「頑張ったら報酬が期待できる」って、何となく考えていたら全然おかしな事ではないように思える。歩合給とか、ボーナスとかがそうね。でも根本的に考えたら、給料もそう。

子供の頃には、「テストで良い点を取ったらお小遣いがもらえる」っていう子が時々いたような気がする。
 
で、この本の中では、「これって本当のところ、どうなの?」っていうところを掘り下げていて、そうすると結構意外でショッキングな事実が見えてくる。

頑張ったら手に入るご褒美。しかし実は、そのご褒美によって損なうものがある、という。

そうそう、この本の英語の原題は、"Punished by Rewards"。「報酬による罰」ってこと。すごく秀逸なタイトルだと思った。

じゃ具体的に何か?報酬によって一体何が起こるのか?何が損なわれるか?ってのがいくつか研究結果なり可能性としてある。
(本を読み切っていないから、まだ途中段階の理解だけど紹介する)

例えば、報酬に動機づけられた行動は、報酬がなくなるともう続かない。報酬なしで行動した人よりも、報酬で動機づけられた人ほどそうなってしまう。
考えたら理にかなってるよね。「ご褒美ないとやる気にならん」となってしまう、って。

で、もう一つ、またさらに興味深い事が書いてあって、「報酬が期待できる場合ほど、創造的な仕事の質を下げる」っていうことがあるらしい。

これ一見不思議に思える。創造的って要素が結構重要で、別に創造的な仕事じゃない場合はそこまで関係がなくなる、ということでもある。誰がやっても同じ仕事ってことか。または、「創造性を発揮しない人にとって」も報酬は効果を発揮するみたい。でもその人はまるでロボットってことやね。ロボットのように味気なく働く人にとっては報酬は意味を持ち得る。しかしその逆、仕事に創造性を発揮する人・・ちょっと飛躍するけど、「やりがいを感じながら働く」人にとっては報酬への期待は逆効果になる、ということになる。

これ、実は自分の経験を観察しても辻褄合うんよね。

って言うのは、僕の場合、「給料がもらえるから、昇給したから、ボーナスがあるから」→「だから頑張ろう!」って、一時の感情/勘違いを除けば、本心から思ったことない。でも仕事が創造的になったり、その際についてくる「やりがい」は、その時々に自然と現れる。つまり「創造性」や「やりがい」って、報酬とは独立して在る。

で、「報酬が創造性を下げる」可能についても実はいくつか心当たりがある。すごく典型的で分かりやすいケースが、高校生時代に遡る。

ある時、「小論文」の授業で、僕の小論文が先生に褒められた。「みんな同じようなものを書いて来る中、小マスターの書くものは面白かった」と名指しで褒められた。
これは、当時の自意識の強い自分にとってはものすごく嬉しいことだったんだが、だからこそマズかった。
その時の「褒められる」、具体的に言うと「認められる」という経験が、「ご褒美」として意識に入ってしまった。
それ以後、僕の書いた小論文は、きっと回を重ねるほど、退屈なものになっていったに違いない。途中から自分でも感じてた。はじめは瑞々しかった創造性が、鈍く劣化していく感じを。でも「それが何故か?」、その時の自分では気付かなかった。

「報酬が創造性を下げる」は、この経験で辻褄が合う。そして僕以外にも、多くの人にこれと似た経験はきっとあると思う。

Revolverっていう僕の好きな映画で、悪役(主人公のライバル)のマカは、「賢い者はある問いを大事にする。この問いをするほど、その者は多くを得る」と言い、「What's in it for me?」と言った。

「それによって何を得るか?」

けれど、真実は、この問いは間違いの始まりだということだ。
(ちなみに映画のストーリーの中で、マカはそのあと、彼は窮地に追いやられていった。)
 
「報酬主義を超えて」。人間の動機と、世の中で起こっていることを理解する助けになる面白い本の紹介でした。

禅の本が行方不明

哲学の一つとして、禅にも興味関心がある。
当然はじめはほとんど何も知らなかったが、4年くらい前にきっかけがあって「禅マインド、ビギナーズマインド」って本を読んで初めて禅について触れた。
確かに帯に「スティーブ・ジョブズも影響を受けた」とか何とか書いてあった。彼もこの本を読んだのだろうか?でも帯にそう書いてるってことはきっとそうなんやろね。
ところで最近、アメリカ人の先生に英語をちょっと教わってるんだが、先生が何か本を読んでいて、「何読んでるんですか?」と聞くと、この「禅マインド」の英語の本だった。
先生に「それ読みました、日本語で」と言うと、先生も「へえ!」と驚いていた。奇遇ですね、と。
 
ただ、不思議なことに、僕の持っていた本は蒸発した。
探しても、見つからない。spirited away してしまった。

しかしこれは、読んだ人なら分かると思う、つまり、めでたく「ビッグマインド」の一部になったのだ。
禅について学んで「あー、ええ話聞いたなー」で終わらせずに、禅の哲学を体現しちゃったということだ。
まだ本棚に本を持っているって人は「まだまだ」やな。

アメリカ人の先生に「読み終わりますか?」と聞くと、「難しくてなかなか進まない」と言った。
そうね、確か、難しかったり、面白かったりだったな。

でも、どこがどう難しかったり面白かったのか、もう昔のことで覚えていない。

もう一度、探しに行くか。何度でも。

暇空茜さんの電話出演を観て👀

昨日、今ネットで話題のcolabo問題の暇空茜さんの生の話を聴いて感嘆した。
 
暇空茜さん。
面白い人だ。いや、すごい。細かい経歴とか今の活動内容は詳しい記事とか動画がそこらにあるからここでは触れないが、何だか「新しい」人だから少しでも興味があったら適当な動画をチラッと観てほしい。
 
昨日は、百田尚樹氏と有本香氏のネット番組にて電話出演していた。自分はこの番組を観た事なかったが、暇空さんへの興味から観てみた。
 
インタビューは1時間くらい。colabo問題はもちろんのこと、そこにとどまらない様々な、そして根深い問題について説明や、時々「これは自分の解釈だ」と断りも入れつつ、明確で整然とした論調で語っていた。
 
細かい問題の内容については、関心はあれども、僕の一知半理解の知識ではここでは触れない。問題に関わる一次情報を自分で調べたりするわけでもないのと、(右派左派関係なく)社会問題の周りにたむろするイデオロギスト達と関わるリスクは御免なので。
 
僕の気楽なフォーカスの一番はあくまで暇空茜さんという人の興味深さ。その話をしたい。
 
まず、ざっくりとした印象だが、めちゃくちゃ賢い。理路整然としている。物事を緻密に理解して適切に説明できる。洞察が鋭い。そんな印象。
 
それと、ここが大事だが、「事実と解釈とを区別して」、そしてそれを都度都度明確にしながら話している。
(・・これをするかしないかは知性の分かれ道だと思う。それってあなたの感想ですよね?と言われるまでもなく、自分で事実と感想を区別しているということ)
 
どうでもいい程度の話だが、インタビューはほんの少し噛み合っていなかった感じあった。暇空氏は政治理念なスタンスを特に取らず、一連の問題と取り組みを純粋に価値観を守るための戦い、且つ、「ゲーム」のように捉えてて、その分極めて客観的で、そこが有本氏や百田氏と毛色が違うのかな。(しかし百田氏は物語作家ゆえか、暇空氏のファンになってる気配はある。その気持ちは分かる。)
もちろん暇空氏の「漫画やアニメ」といった「創作物」に対する想いは、彼の主観的な部分、理念なり信条と言ってもいい部分のようでもある。とは言えこれは「創作物」という現実の価値(観)にしっかりと根ざしている。
 
じゃあ、暇空氏の発言から印象に残っている具体的な点を、要約のかたちで2点(もちろん文脈は踏まえて)。
 
一つ目、
「これは戦いだから、相手がダサイことを言ったのをわーわーダサイと笑っても何も良い事はなくて、そこから相手の作戦とか戦略を読み取る方がゲームとして有利になるからそうすべき」
 
感嘆した。これは確か主に百田氏が、相手側の失言について「(相手は)語るに落ちたね!」と言ったことに対して暇空氏が返したものだ。
ネット上の議論にならないバトルとは別ものの構えだ。
「戦い」と言った暇空さんの動機は、彼の愛する漫画やアニメといった「創作物」や「表現」のための戦いのようだ。つまりイデオロギーやプライドを証明するための不毛な戦いではなく、実際の価値(観)を守るための現実の戦いだ。マウントを取ることに意味はない。そう考えれば当然のコメントなんだが、それを即座に明確に説明してのけることに驚いた。
 
 
もう一つ、
「過去に前例があるからと言って当てはめて考えるのは良くない。過去に似た敵がいても、次の敵はより強くなっているものだから、過去の敵がこうだったからとその範囲で捉えるのは今の敵を舐めてかかることになる」
 
これも秀逸だと思った。これは有本氏が、過去にあった非常に似通った問題について言及した時の返しだ。
ここでも彼は限定されたスタンスと問題意識を取ることを良しとせず、今の現実に対してオープンマインド。だからこそ鋭い。狩人のように今の状況をジリジリと見極めて行動しようとする姿勢と思考が見える。
 
 
以上の2つ。
 
平たく換言すると、1つ目のコメントからは、現実の目的にフォーカスすること。
2つ目は、前例に視野を限定されず、今の現実を見ること。
と、これらは「これってわたしの感想です」だろうか?笑
(それもないとはとても言い切れないで、その可能性について謙虚にいこうとは思う。僕に暇空氏の内心までは分からない。)

とにかく、仮にこの問題に関心や意見はなくても、またはフィールドを何らかの「戦い」に限定しなくても、暇空さんという人物は興味深く、学ぶことがあると思ったので書いてみた。
 
最後に改めて念押しだけど、社会問題そのものについて論じる意図の投稿じゃないので、事の善悪の判断や好き嫌いとは別個の話として捉えてください。
まあ僕は、暇空さんのこと好きになっているが…ネットで知る限りだが。
 
ではまた。
 
Yu

身近な邪悪とありふれた賢者

カルト被害が意外と身近にもあった話。

 

統一教会の騙し打ちのような手口でよく分からん必要のないものを十何万で買わされた被害者女性が身近にいた。
たまたま話をしていて「私にもこんな事があった」と聞いた話。30年以上前の話らしいが。

 

その女性の当時の近所の人が隠れ信者だったらしく、その近所の人に統一教会云々とは知らされずに誘われて(まだ小さな子供と一緒に)連れて行かれて、その先で「何を買うか」という話とか「通帳は持ってますか?印鑑は?」みたい無茶苦茶な話になり、もちろん断り続けたが、「何を言っても帰らせてもらえない」状況に陥った。最終的には十数万円で何かを買わされて終わったらしい。

 

「え、そんなお金、もったいない!?明らかに不要なものに!」とは話だけ聞けば思うが、(当時、小さな子供を連れた)女性が置かれたその状況を真面目に想像すると、最終的にお金を払ってでも不穏な状況から辛うじて逃れた気持ちにも同情した。

 

その女性はごく普通の人だが、自分の知る限り、理性的な人だ。
だからその経験談を聞いて、そんな経験があったからこそ理性に磨きがかかったのかも知れないし、そんな理性的な人でも騙されて被害に遭い得るということかも知れない。などと思った。

 

その人は「それ以後は気をつけている」と(当然と言えば当然だが)言った。その人の批判精神と懐疑精神を自分もよく知っている。
それと同時に、「私は宗教は嫌いじゃないのですよ」とも言った。つまり過度の一般化はしていない。
適切なバランス感覚に感心する。
身近にいるありふれた賢者の話でもある。

 

ではまた。

Yu

バーテンダー🔄人間への興味(価値観)

前回の自己紹介の投稿を書いたら、一つ一つ掘り下げたいことが山ほどあるような気がする。
でも何を書いたっけ?・・そうそう、バーテンダーだ。それと自分の価値観と結構相性が良いってことも書いた。
その価値観というのは人間への興味だ。知性・理性という価値観とも繋がっている。
 
バーテンダーってのは変な人が多い、という傾向は昔からあるみたいなんだが、自分もちょっと変わっている。
飲食業という業界の人間としては、おそらく、とても「らしからぬ」経験をしてきた。
 
人間への興味・・と今はザックリと括っているが、元々は自分の人生についての悩み苦しみ絶望を何とか突破したいと、心理学、脳科学、思考法、東洋思想、哲学、精神世界もかじりこんで探求してきた・・
まあ他にもあるが、実はあれやこれやと並べたところで意味はない。
色々見て来たけど、結果的にほとんど捨てたとも言える。というのは、熱心に色々やってきたが、最終的には本当に良いものとそうでないものが区別できるようになってきたわけで、シンプルになったのだ。(あと、元々のネガティブな動機も色々あってもう過去のものとなった。)
 
でも、それはそれとして自分のやってることは昔から今もバーテンダーなわけ。
セミナーやコースに参加しても、自分以外にバーテンダーはいなかったな。飲食業の人もほぼいなかった。
 
その分野で知り合った人たちには、コーチング、コンサル、カウンセラーなんかをやってる人たちが多かった。(ちなみに自分もコーチングのコースに参加したこともある。)
 
とにかく自分は興味があるから前のめりに勉強していたし、自分の「場違い感」も楽しんでいた。ところが手前味噌だが、そういった人間への興味や探求という価値観と、バーの仕事は相性がとても良いのかも知れない。これは結構最近になって気づいた。
 
これはディスっぽくなるが、コーチやコンサルやカウンセラーといった人達を見て来て思ったのが、何となく面白い人が少ない。
 
これは何気ないようで変な話だと思った。人間という面白いものと関わる仕事をしている本人に面白みがない、なんて。
 
よく言うと彼らは真面目過ぎってわけなんだが、具体的に言うと、勉強したこと(方法論・理論・思想・世界観など)で頭がいっぱいになって、生の人間や生の人間関係の醍醐味に鈍感になってしまう傾向があったりする。これが彼らを面白くなくする理由の一つだと思う(あくまで傾向の話をしていて、一般化したいわけではない)。
 
しかしバーテンダーの仕事は生の人間の生の面白さでいっぱいだ。カウンターで出会う人達の多くは何かしらの面白さを持っていて、それを垣間見せてくれる。自分も、自分の持てるスキルと感性を駆使して、お客さんと一緒に面白さを創造しようと(楽しく)努力する。
もちろん楽しいこと・良いことばかりではないが、とにかく「生」の人間と関わる仕事だ。
 
接客の中では色んなケースがある。まず話す人もいれば話さない人もいる。(二人きりのカップルや仕事の話を真剣にしている人同士などを相手に自分が出る幕はない。)
お客さんと話す場合も、軽い談笑・情報交換・真面目な話・深い話・突っ込んだ話をする場合など、人や場合によって違う。
 
しかし先に書いた理由からか、まるでコーチングやコンサルかカウンセリングのような、まあ何でも言いが、つまり、人生がトピックになっている時が結構ある。


話は遡るが、十数年前、自分がバーテンダー修行を始めた頃、「自殺する人が最後に話をする相手がバーテンダー」とかいう変な神話があった。(出どころは何処だろう?謎だが)
 
僕の師匠はそういう神話を「過剰なロマンチシズム」と切り捨てていたし、僕もバーテンダーに対して「駆け込み寺」みたいなのはいい加減で勝手な設定だと思っていた。
たまたま師匠も僕も、「自分の人生、自分で考えて、自分で生きるもんですよね」という個人主義の強いタイプで、お悩み相談にウェルカムじゃなかった。相談されても「正しい答え」みたいなものをさっさと投げる、という感じだった。
 
ところが初期から十年ちょっと経って、気づけば、師匠はともかく、今の自分はかなり違っている。
人の相談を聞くことも自然にする。嫌じゃないどころか、興味深く、楽しみながら。
答えを与えるのではなく、当人と一緒に探究する。

今でも個人主義個人主義だが、その主義を突破する価値観・・人間への興味があるからだ。

まあ、そんなこんなだ。
人間への興味や探求とバーテンダーという仕事が深いところで相性が良かった、そして相互に活きている、ということの説明に少しでもなっていたらいい。
 
ではまた。
Yu

自己紹介ねえ。。

新参者らしく、簡単に自己紹介もする。

小マスター(Yu)です。

小マスターというのは仕事で修行時代に常連のお客さんの一人から呼ばれていたことのあるニックネーム。Yuは本名。

仕事はバーテンダーをやっている。カウンターでシェーカーを振ったり(振らなかったり)お客さんとお話をしたり(しなかったり)する仕事。
バーテンダーという仕事は醍醐味ある仕事で、しょっちゅう楽しい。しかし話せば長くなるのでここではこのへんで。
 
次に好きなもの、興味のあるものなどについて。
一つは音楽が好き。新旧洋邦、キリがなくなるが、子供の頃から特別な存在だったのはビートルズで、特にメンバーのジョン・レノンに関しては音楽以上に人間としても影響受けた。
その後に好きになった音楽の諸々は列挙し始めたら大変だし読んでいる人からすれば退屈だろうから止めておく。音楽の話もしたい時はしようと思う、というか、いつも身近に音楽があるので気楽に触れたり紹介することになるとは思う。
 
音楽以外にも、アートとアーティストに興味とリスペクトがある。自分でも趣味で絵を描く。アートから学べることはとても多い。(逆にアートに幻想や思い込みを抱いている人も多い)。
「創造」という価値観が好きだ。
 
知性や理性といったことにも興味がある。これを何と表現して良いのか分からない。哲学とか思想とか思考法とか心理が含まれるが、そこには収まらない。(そういうものの多くに懐疑的である)。とにかく、まだしっくりくる言い方として、知性や理性に興味がある、としておく。
そのために、本を読んだり、のみならず、コースやセミナーに参加したりしてきた。
 
何と表現して良いのか分からない、とは書いたが、少し別角度の切り口でなら別の良い言い方あった。
「人間」に興味がある。これはこれでしっくりくる。
自分を含めた、人間に興味があると言える。知性的・理性的、そして創造的なる存在として。
こういった価値観は、実はバーテンダーという今の仕事とも相性が良い。何せ人間と向かい合うカタチになる場合が多い仕事だからね。
仕事を通して自分の深い価値と関われるというのはとても味わい深いことだ。
 
だから仕事でなくても、一応外には出かける。期待するのも違うんだが、外に出たら内にいるよりも人と出会うこともある。
しょっちゅうカフェに行って読書をしたりしてるんだが、カフェのスタッフとよく話したり、親しくなったりすることも珍しくない。他のお客さんと話をする展開があったりもする(こっちはやや珍しいケースだが)。
 
こんな感じかな。
どれについても語り始めたらキリがない。いくらでも話ができる。初投稿で書いたように、これまでもアウトプットして来たし、アウトプットは生き方だからね。
しかし同時に、もっともっとやっていきたい。何事にも終わりはない。思考を整理して、知性と理性を磨き、創造的していきたい。人とも出会い関わっていきた。
現実の探究にゴールはない。
 
以上、自己紹介でした。
これを書いてる間も創造のひととき。楽しかった。
 
ではまた。
 
Yu

初投稿

SNSって相性があるね。
まあSNSに限った話じゃないんだが、アウトプットや情報発信のスタイルってのは相性ってもんが厳然としてある。約20年前にブログを始めてやってみたり、他のブログやってみたり、SNSに関してはFacebookと、最近はTwitterと、あれやこれやとやってきて、これは否定し難い経験則。相性が大事ですよ。相性が合わないと、何となく疲弊していくんよね。
 
最近はTwitterが気楽でいろんな情報も入りやすいと思って気に入っていたんだが、やっぱりどうも良くない。これは最近Twitterやった人なら分かると思うけど、土壌が荒れて腐っているところがある。平たく言うと、やたらと変な人が多い。意見の合わない人達が罵り合っていて、議論の土壌にはなりそうにない。あまりにくだらないものを目にすることが多いと、これは精神衛生と思考の整理のために良くない。
 
でも一方で、アウトプットや情報発信はやった方がいい。これも経験則。誰かに読んでもらうという前提で文章を書くってのは思考の訓練になった。発言・表現への慣れや、敏捷性や表現力も鍛えられるので準備にもなってきた。文章を書くってことをやってきたからこそだ。
 
と言いつついきなり前言撤回じゃないけど、アウトプットって、何か良い事があるからとか、効果を期待してするもんじゃない。それ以上か以前か知らないけど、正直アウトプットは生き方だと思うね。
「やったほうがいいからやる」んじゃなく「やるもんだからやる」
だからアウトプットをことさらに強調したり推奨したりされているのを見聞きするとちょっと違和感を抱くところはある。まあそれは別の話だが。
 
話を戻して、今回は初の「はてなブログ」をやってみることにした。ここの気配も使い方もまだ全然つかんでいない。自分にとって相性が良ければいいな、長く続けられればいいな、と思う。
 
日々、都度都度、何かを書いてアップしてみようか、と。
ではよろしく。
 
Yu